2014年11月9日 てつがくカフェ第5回「震災と時間」(報告)

今回は「震災と時間」というテーマで参加者11名の方々と語り合いました。

前半部分では、参加者の皆さんにざっくばらんにこのテーマについて思うところを話していただきました。

はじめに、時間の経過による変化として、震災のことをより考えるようになった、「震災」という言葉が東日本大震災だけでなく他の震災を連想するようになった、といった意見があがりました。そして、ボランティアについての意識の変化も語られました。

また、震災を契機とした時間についての感覚の変化についても共有され、例えば、社会の流れや習慣で刻まれていた感覚から、自分で時間を刻む意識が芽生えている感覚をお話してくださった方もいらっしゃいました。

その一方で、時間のもつ自然サイクルとしての側面についても言及がありました。

 

時間という概念の広さからか、参加者それぞれが持つ感覚や意識、経験などについて多様な発言がなされましたが、テーマについてより深く語り合うために相応しい問いかけを探すべく、自ら持つ時間感を洗い出すような「時間を共有する」ことについて問いかけていくこととなりました。

 

「私は誰かと時間を共有することが可能か?」という問いを設定し、後半部分が進められました。

はじめに、時間の共有が意味するものとは、震災という危機を皆で共有して乗り越えること、あらゆる援助、体験の共有、関心を持つこと、といった意見があがりました。また、その共有とは互いに確認できるものなのだろうかといった問いかけもありました。

 

この語り合いを通して、誰かと時間を共有することとは、互いに関心を持っているような「プロジェクト・まとまりとしての共有」、「体験としての共有」、そして「不安から生まれる共有」として導かれ、同時にこれらの共有は、やってくる時間に対して、その前もしくはその後に位置するものなのかを確認していきました。

 

これら共有は、時間軸や物理的な距離からは自由であり、自分自身との関係性の模索のなかで見いだすものであることを確認し、『時間の共有とは「向き合う」ものである』として、今回のてつがくカフェを締めくくりました。

 

終了後の歓談のなかで、「共有する」というワードに引っかかり、なかなか考えが進まなかったとの意見がありました。「共有」という言葉が、誰かと共有しなければならない、共有を善であるといった意識を喚起してしまうのかもしれません。

 

今回のてつがくカフェも、美しいアート作品溢れる企画展スペースのなかで、終止和やかに行われました。